現在千円札のモデルとなっている文豪・夏目漱石の写真を撮影した写真家の小川一真(おがわかずまさ 1860〜1929)が明治24年(1891)に100人の当時、有名な芸奴を集めて「凌雲閣百美人」と言う、投票によって美人を選抜する(日本初のミスコンテスト)催しの為に撮影されたものです。『Celebrated Geysha (Geisha) of Tokyo, 9 Plates with 105 Portraits, ca 1895』
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凌雲閣(りょううんかく)は、明治期から関東大震災の大正期まで東京・浅草にあった12階建てのビル。12階建てだったので、浅草十二階という名でも知られている。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。東京における高層建築物の先駆けであり、藤岡市助による日本初の電動式エレベーターが設置されたことでも知られる。完成当時は、12階建ての建築物は珍しくモダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿は登場する。建物の中は、8階までは世界各国の物販店で、それより上層階は展望室であった。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡せすことができた。1890年(明治23年)の開業時には多数の人々で賑わったが、明治後期には客足が減り、経営困難に陥った。明治の末に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年(大正3年)にはエレベーターが再設され、一時来客数が増えるが、その後も経営難に苦しんだ。十二階はその高さゆえに浅草のランドマークとなり、啄木や白秋、金子光晴の詩歌や江戸川乱歩の代表的短編『押絵と旅する男』など、数多くの文学作品にその姿は登場する。しかし、1923年(大正12年)に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊し経営難から復旧が困難であったため、同年に陸軍工兵隊により爆破解体された。凌雲閣の跡地はその後映画館の浅草東映劇場となるが、現在はパチンコ店になっている。(Wikipediaより抜粋)
あなたは十二階へお登りになすったことがおありですか。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこれんな代物でございましたよ。江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」収録「押絵と旅する男」より(amazon)
小川 一真(おがわ いっしん/かずまさ、万延元年8月15日(1860年9月29日) - 昭和4年(1929年)9月7日)は、日本の写真家。 [編集] 略歴 忍藩(現埼玉県行田市)に生まれる。明治15年(1882年)に単身渡米留学をして、帰国後は写真師として活躍。数々の名所や風俗・文化財をはじめ、日清・日露戦争、明治天皇の大喪の礼と、近代国家に生まれ変わる日本をその都度フレームに収めた。明治43年には帝室技芸員の栄誉に輝く。また写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、写真文化に大きな業績を残した。(Wikipediaより抜粋)
芸妓(げいぎ)とは、舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性のこと。酒席に侍って各種の芸を披露し、座の取持ちを行う女子のことであり、江戸時代中期ごろから盛んになった職業の一つである。(Wikipediaより抜粋)
舞妓 (まいこ)は年少芸妓、芸子(芸妓)の見習い、修行段階の者を指す。舞妓は京都(大阪、奈良などでも)の呼称である。東京など関東地域でいう『半玉』もしくは『おしゃく』に相当する。芸者は江戸での呼び方なので、区別する必要がある。(Wikipediaより抜粋)
1908年3月5日にヘラルド・トリビューンが依頼し、時事新報主催『世界美人コンクール』の日本予選として行った「良家の淑女」写真コンテストの入賞者発表を掲載したのが始まりとされ、以後3月5日をミス・コンテストの日に制定している。ちなみに、このコンテストで最優秀賞を獲得し、日本初のミスに選ばれた当時16歳の末弘ヒロ子は、学習院女子部3年生に在学していた。当時この女性の義兄が、女性に無断で写真を主催者宛に郵送したそうだが、これが学習院上層部、特に学長の乃木希典の怒りを買い、諭旨退学処分というお咎めを受けるとなってしまったというエピソードがある。乃木は後にこの事を悔い、末弘の仲人を務め、野津道貫の長男と結婚させた。(Wikipediaより抜粋)
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(記事参照元) Celebrated Geysha (Geisha) of Tokyo, 9 Plates with 105 Portraits, ca 1895
明治24年(1891)7月、開業半年を迎えた浅草公園の高塔凌雲閣で、「百美人」と呼ばれる催しが行われました。当時の有名芸妓100人の写真を展示し、投票によって美人を選抜した、日本初のミスコンテストといえる催しです。
MEIJI TAISHO 1868-1926
舞 妓・芸妓の世界には非常に厳しい独特のしきたりや伝統があります。 舞妓になる前の段階を「仕込み」といいます。15才頃から、置屋で先輩(姉さん)達と共同生活をしながら、舞や行儀作法、着物の着付けなどの修業を経て、 約1年後に舞妓としてデビューする事ができます。舞妓としての約5年間は芸妓になるための修練期間で、一通りの舞や三味線、お囃子、そして大切な「お座 敷」でのお客の接待を姉さん芸妓から学びます。また舞妓になると、お座敷には荒れた手はそぐわないとして水仕事や掃除、洗濯をしてはいけません。舞妓とし ての修行期間が終わると、「衿〔えり〕かえ(※)」という儀式を経て芸妓になります。芸妓は、文字どおり「芸」で身を立てる妓(女性)を意味します。した がって、舞や唄といった芸事はもちろんの事、お客への接し方、話題の豊富さ、女性としての魅力も益々磨きをかけなくてはなりません。 ※衿かえ・・・舞妓としての修練期間を終えた20才頃に、舞妓時代の華やかな赤い衿から大人の芸妓の証である白い衿にかえる事。
写 真家・小川一真 小川一真(おがわ・かずまさ 1860〜1929)は、明治から大正期に活躍した写真家です。明治43年(1910)には、東京写真師組合を結成、初代組 合長をつとめるとともに、長年にわたり写真界の進歩に尽した功績を認められて帝室技芸員に推されるなど、日本における写真界の発展に尽力しました。ちなみ に、現在千円札に描かれている文豪・夏目漱石像のもととなる写真を撮影したのも小川写真館でした。
日本初の美人コンテストは、明治17年、東京下谷で開かれた「美人共選会」というが、くわしい記録はのこっていない。ついで23年には、上野の上広亭で「美人品評会」というのが催されているが、一般の話題にはならなかった。25年、浅草の凌雲閣という東京タワーの元祖のようなところが、「百美人投票」を行なったが、これは広く知られたレジャー施設であったため、満都の話題となった。
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